海のそこ(第13回短編小説の集い)

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初めて参加してみます。よろしくお願いします。

 

『海のそこ』

 深海魚みたい、わたし。みちるは思う。

 智の胸に顔をうずめる。晴れなのか雨なのか、昼なのか夜なのかもわからない。光があるのかないのか、出口があるのかないのか。

 わからないけど、考えなくてもいい。智がみちるの髪を撫でる。この世にかなしいことも、こわいことも、なにもない。

 深海魚になりたかったんだわ、ずっと。ちいさなころから。みちるは思う。

 智からは乾いたにおいがする。海の、あの生き物のエネルギーに満ちたにおいとは全然ちがう。水の中なのに乾いてるのだ。泥なのか砂なのか水なのか埃なのか。ただ暗いのか濁っているのか、曖昧だけれど、心地がよくてそんなことはもうどうでもよくなる。深海ってこんなにおいがするんだわ、きっと。深海に潜ったことはないけれど、みちるは確信している。

 智のにおいで体をいっぱいにしたくて、智の胸に鼻を押しつけたまま一生懸命息を吸い込む。一生懸命になりすぎて、息を吐き出すことを忘れて苦しくなるので、呼吸を整えようと仕方なく上を向く。息がしたいのに智が唇を塞いでくるので、みちるの頭は朦朧とする。甘くてここも心地がよいけれど、みちるはまた深海に戻りたくなる。

 

 智から離れたみちるは、深海魚ではいられない。もっと水面近くをせかせか、すいすい、泳がなくてはいけない。そうしないと、仕事でプロジェクトを引っ張ることもできないし、女友達の相談に前向きなアドバイスをすることもできない。みちるは、せかせか、すいすい、泳ぐことがそこそこ上手にできてしまうのだけれど、楽にできるわけではなくて、いつも必死なのだ。本当はそんな無理なこと、したくないのに。思いどおりのことを、思いどおりにすることは、難しい。

 みちるは、そんなときの自分のことを、小さな魚が寄って集まって、大きな魚を驚かせて追い払う話の絵本の、大きな魚みたいに感じる。寄り集まった小さな魚のうちの一匹ではなくて、追い払われる大きな方の魚だ。大きな魚だって、体が小さければ、小さい魚と一緒になれたのに、ひとりぼっちでかわいそうだ、と泣きじゃくって、子供の頃読み聞かせてくれた父親を困らせた。

 

 

 智とみちるは、仕事の接待で出会った。智の会社がもてなされる側だった。

 智はぱりっとしたスーツを着て、ぴかぴかの靴を履いていた。にこにこしながら、必要な時に必要なことを話し、適切に楽しそうな雰囲気を出していた。みちるは智のことを、分厚いガラスの入れ物の中にいるような人だなあ、と思った。すぐに近づけそうなのに、手を伸ばしても誰も彼には触れることはできない。どんなに氷を詰め込んでバーボンのロックを作っても、目の前のグラスみたいには、汗なんてかかないのだろう。ガラスの中の彼が、どんな温度の中で過ごしているのかもわからない。

「なかなかいけるくちじゃないですか。」

「父がバーボン党で。カクテルの名前に疎いんです。」

「それなら、次の一杯は私のおすすめはいかがですか。」

 一見上品な笑顔を浮かべた智の会社の偉い人の手が、先程から際どい。最初は太ももの縁に触れるか触れないかという感じだったのに、どんどん内側に移動してきた。ああ、嫌だな。紳士ぶったえろじじいなんて、中途半端で卑怯だ。

 カウンターテーブルでえろじじいの向こうに座っていた智が、反対側に座っているみちるの上司の隣の席にグラスを持って移動しようとして、よろけて派手にグラスをぶちまけた。おかけでみちるの背中は、ほとんど氷水になったなにかのお酒でびっしょりになった。

「ああ大変だ。本当にすみません。早く拭かなければ、風邪をひいたら大変だ。」

 智は上司が制止する間もなく、みちるの手をとって店の外へ連れて行ってしまった。

二人はいつの間にか階段を降りて、往来に出ていた。少し歩いてから植え込みのへりに座って、智はみちるの背中を、タオルでゆっくりぬぐっていた。

「あの、大丈夫ですから、全然。」

 みちるは居心地が悪くなって、すっくと立ち上がった。風を背中に受けるとまだ少し冷たくて、身震いした。

「ほうら、もうこわくないでしょう。」

 自分も立ち上がり、少し伸びて目にかかっているみちるの前髪を撫でて横に流しながら、智は言った。びっくりして見上げると、自分が映った智の黒目がちなふたつの眼と、産毛の多い薄い眉と、その奥に、今にも消えそうな細い月が、みちるの目に飛び込んできた。

 ああ、こわかったのか。えろおやじのことが、今までのそのほかのいろんなことが。ずっと、こわいものから逃げ出したかったのか。そのとき初めて、みちるは気づいた。

 

 智の前では、みちるは思いどおりのことを思いどおりにやる。

 突然智を巻き込んで、本棚の小説を出版年順に並べ直す。仕事の電話をしている智の首に、腕を巻きつけて邪魔をする。包丁で少し指を切ったら、ちっとも痛くないのにおおげさに泣いてみせる。くだらないクイズを出し続ける。ソファーに寝転がって映画を観ている智のおなかに頭を乗せる。自分も観たくなったら、もう一度頭まで巻き戻してもらう。

 頭のなかに次々に浮かぶことを、全部智に話して聞いてもらいたくなる。

 そして、外でせかせか、すいすい泳いで、ひとりぼっちの大きな魚になったみたいで不安になったら、智の胸に顔をうずめる。

 「ほうら、もうこわくないでしょう。」と聞いたのは、出会った夜のあの一回だけだけれど、みちるは智の胸のなかで、もう何度もその言葉を聞いたように思う。本当だ、こわくない。ひとりぼっちじゃない。

 とても穏やかで、ずっと昔からこうだった気もするし、この先もずっとこうな気がする。でも、ずっとが存在しないことは、みちるは大人になっているので知っている。いつかみちるの体がだらしなくなって、おなかがぶよぶよになったりして、智はがっかりしてしまうかもしれないし、仕事がとてつもなく忙しくなったら、いちいちはしゃぐみちるのことが、鬱陶しくなるかもしれない。

 だからみちるは、この瞬間の二人を、ガラスの箱に閉じ込めてしまいたくなる。簡単に割れない分厚いガラスの箱に。逆さにすれば雪が降る置物みたいに、このかわいい幸せな私たちを、閉じ込めて宝物にしたい。宝箱に入れて大切にして、褪せないように取り出すのは我慢して時々にする。おばあちゃんになっても眺めて、ずっと忘れないでいたい。

 

 

 みちるが、智の胸に顔をうずめても、深海魚になれなくなったのはいつの頃からだったか。

 智が、みちるよりも年下の、胸の大きな女の子に熱心になった頃だろうか。短い恋は終わって、智は戻ってきたのに。みちるが仕事が忙しくて、連絡を忘れがちになった頃だろうか。今は一段落して、一見は元通りなのに。智は、みちるが何を考えていようがお構い無しな様子になった。みちるは、智に話したいことを話せなくなって、訊きたいことも訊けなくなった。そのうち、智に話したいことも訊きたいこともなくなった。話していても黙っていてもあんなに安らかだった空気が、鉛のようになった。

 

 二人は陸に上がって、きちんとお話をした。ぱりっとしたスーツを着て忙しなく働く人が時間を潰すような、おしゃれだけれど無機質なカフェで、苦いコーヒーを飲みながら、きちんとお話をした。

「みちるといると、自分がうんとやさしくなった気がしたんだ。みちるにやさしくしたい気持ちよりも、自分がやさしい人間だって認められたい気持ちが強いのがわかってて、それを見ないようにしていたんだ。」

 真面目な顔をして、重大な告白をするように智は話した。みちるはずいぶん前から、そんなことはよくわかっていた。でも、それでいいと思っていた。自分はやさしい人間だと思いたくて智がやっていたことは、みちるにとっては、ずっとずっと欲しくて探していた、とてつもなくやさしいことだった。自分がこんなに必要としているやさしさなのだから、智のやさしさがどこからくるのか、純粋にみちるのためだけを思ってやっているのかどうかなんて、どうでもいいと思っていた。本当のことを二人一緒に見つめて、智のやさしさが自分に降り注がなくなったらと思うと、こわくて体がばらばらになりそうだった。

 それでもいいから側にいて、と、みちるは言葉にすることができなかった。言いたくて言いたくてたまらなかったけど、どうしても喉がつかえた。全身で、全力で智のやさしさを欲してきたのだ。そんな風にみちるが思っていることは、智は十分わかっているはずだ。それでも智は、みちるの側にはいられなくなってしまったのだ。

 智は深海で、みちるはそこを泳ぐ魚。本当は智も魚になって、一緒に泳ぎたかったのか。わたしが先におもいきり魚になってしまったから、智は魚になりそびれてしまった。もっと早くそのことに気づけばよかった、とみちるは思った。二人で泳ぐ深海の景色も、見てみたかった。

 

 

 智が忘れていったアドマイザーを、みちるは捨てられずにいた。深海のにおいのもとだ。みちるは時折、かたく目を閉じてから、蓋を開けて、そのにおいを吸い込んでみる。何かのスパイスの香りが、つんと鼻につく。深海のにおいがどんなだったか、思い出せなくなってしまった。もうみちるは、海のそこを泳ぐことはできない。

 この世にはかなしいこともこわいこともたくさんあって、それでも泳いでいかなくてはいけない。せかせか、すいすい、泳いでいかなくてはいけない。

 深海魚になりたかったんだわ、わたし。ずっと、ちいさなころから。お母さんのおなかから出てきたときから。